2007年09月25日

ブログを移転しました。

長らく更新しておらず倉庫状態ですが、このブログと、
悪日記(http://warunikki.seesaa.net/)をまとめて、
自分のドメイン下にアーカイブすることにしました。

URLはこちらです。
ChanM屋思索庫 http://thoughts.chanm.com/

これから更新するか分からないのですが(他のブログと被りだしているので・・)、
こちらにいつまでもおかせてもらってるのもあれなので、
とりあえず移転だけしておきます。

でも更新したいなあ。

よろしくお願いします。
posted by chanm at 18:40| Comment(33) | TrackBack(0) | 身の回り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月07日

哲学の意味について

もちろん私見だけど、、。


哲学は、
「自分が変わる」という
勇気がないと、
やる意味がないと思う。

人を変えたかったり、
社会を変えたかったり、
こうあるべきと言いたかったり、
どうあるべきか悩んだりするなら、
だめだ。


自分を変えずに周りを変えようとする思想は
ことごとく失敗する。

共感を得ない。
愛がない。
本人が実践していない、から。
幸せそうじゃないから。


21世紀も5%を終了してしまったけれど、
これからの哲学は、
とてもパーソナルなものになると思う。

人類がどうとか、社会がどうとかじゃなくて。

そして、論理ではなくなると思う。
論理ではなく、在り方のことを言うようになるだろう。


本人の在り方が変われば、
世界なんて、簡単に変わってしまうからだ。
そして未来も、過去でさえも。
言葉も、概念も、価値観も、何もかもが。


1人が、自分を深く見つめて、表現した在り方、それを哲学と呼ぶようになるだろう。


本ではなく、その人を見ただけでだれもが理解する。
何万字を連ねた書物を読むよりも早く。一瞬で。
愛や幸せをわかる。


哲学に、言葉は要るのか?

否、と言う日が来る。みんなが。いつか。
その日から本当の哲学が始まるだろう。


彼らは出かけるだろう。


言語に囚われ、言語を追いかけ、言語に依存する、
哀れな、私たち古い時代の哲学者たちを置き去りにして。
posted by chanm at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | てつがく、 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月07日

メタ疲れ。

記憶力がないので、事象をそれ自体として個々に認識しておくことが出来ない、長い間は。

数字とか。
人の名前とか。
ある出来事とか。
感情とか。

いつも、事象に遭遇したとき、自分のメタ倉庫にまずは逃げる。
どの論理群に定着させるか。どの感情群に定着させるか。選ばないと。事象を。
じゃないと、忘れてしまうから。
編集しないと。物語にしないと。論理に還元しないと。


ということを無意識にやっていると、
蓄積するのが、
「メタ疲れ」。
「評論し疲れ」。
「編集し疲れ」。
「当事者であることから逃げ疲れ」。

メタ疲れというのは結構人からエネルギーを奪う。
私が常に低テンションなのはこのせいだといいたいくらいに。
今の若者もそうじゃないかなあと思ったりする。
将来をざっと想像してしまって。世の中を分かった気になってしまって。
面白くない、とメタ疲れ。

当事者にならないとエネルギーなど生まれてこないのだ、そもそもにして。
解釈する側より、解釈される側の方が楽しいに決まっている。
現実を追うより、現実を創り出す方が。

人生は、といっている限り、エネルギーは生まれない。
自分は、と言わないと、人の情熱は動き出さない。


下手に哲学科に(いるだけ)いたりしたことも影響して私は長い間、そしてたぶん癖でこれからも、
メタ疲れ、もしくは物語疲れを抱えて生きていくような気がする。
別にいいけれど。

だからさ、
これは僕のリンゴを囓ったネズミを捕まえた猫のしっぽを踏んづけた犬が加えてきた棒を切ったノコギリを持ったおじさんの、
リンゴ。


ほぼ日でインタビューが連載中の
作家の保坂和志さんという方の言葉。
まるまる引用。
(まだウェブには出てこないらしいが、メルマガに書いてあった。そのうち出るそう。)

「起きた出来事を整理して解釈しないで、
起きた出来事だけをそのまま受けとめるようなクセを
作っておいたほうがいいとは思います。そうしないと
どれだけたくさんその状況やいきさつをしゃべっても、
『そこで保坂さんは何を感じましたか?』となる……
『何を感じましたか?』という気持ちの問題じゃないんです。
大事なのは事実の方なんです。
目の前の事実を解釈するのではなく
受けとめるように訓練を積んでいくと、まとめの言葉なんか
事実とは別のことで、事実の一部分を
くっつけたりしているだけだとわかるんですね。
大事な忘れられない経験を思いだして誰かに伝えた時に
『それであなたはどう思うんですか』
ときかれたらうっとうしいじゃない?
自分の心に起きたことなんて、うまく言えない。
そこには、事実の連鎖以上の説明は要らないんです」


うらやましい。
ほんとさ、そう思うよ。
そうできたらってさ。

事象それ自体には感情も物語も付着していない。
それは人間の、もっと言えば個人個人の創作物だ。


どうかこれからはあんまり、
事象に、自分の言葉が追いついてしまいませんように、
と抽象的なことをお願してしまう、
雨降りな七夕のこのごろ。
posted by chanm at 16:48| Comment(0) | TrackBack(0) | かちかん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月01日

勘違い力

ちっちゃい頃の原動力って、
「思いこみ」や「勘違い」だったような気がする。

少ない知識、狭い世界しかないから、
本気でウルトラマンや忍者になろうとしたり、
クラスの半分の子の将来の夢が野球選手だったり。

それが”現実を見”たり、
見聞を広めたりして、
だんだんと薄まって、中和されて、
気力や原動力も、薄まったり、落ち着いたりして、成長していく。


今の子は情報が多いから、
結構小学生のうちから、知ったような口をきく。
あまり勘違いしたことは言わない。
早いうちに気力も薄まり、薄まりすぎて無気力になったりしていく。

それは大人でもそうで、
昔は、「知れば知るほど己が知らないことを知る」なんて、
学究に励む人や、どこかの分野の第一人者的な人がが噛みしめていれば済む思いだったんだけど、

こうも情報過多の世の中になると、
一般人、凡人までもが自分の発言をする前に、
自分の意見が「正しいのか?」なんていちいち周りを見回してから
言わなきゃいけないような気になる。

たとえば「戦争反対」すらも、
何百年もの歴史を紐解き、分析し、各国の利害を鑑み、
それからじゃなきゃ主張できないような。


そのうち、あまりにそれが進んで、一億総中流ならぬ「一億総中庸」に
なってしまったりするんだろうか。


全ての人が批評化にならなければならないわけではない。
これだけの人間がいるのに、みんなが「まとめ役」にならなきゃいけない訳じゃない。

でも情報が、持てば持つほど、良識を形成していく。あらゆる偏った考えを中和していく。
みんな最初から、真ん中に立とうとする。
自分が何かの意見を持つ前に。
否定されないように。


・・つまらない。



今、子供の頃ほど、素直に行動しない自分がいる。
あまり勘違えないから。あまり思いこめないから。

でも、自分が人生で誇れる何らかの経験はすべて、
思いこみに支えられて培われたのではなかったか。
それらの思いこみがたとえ成就しなかったとしても
経験が、自分に残った。


ヘーゲルの弁証法が好きだ。
何かが選択され、何かが捨てられるのではなく、
何かが否定されるが、それは次に生まれるなにかの要素として残る。
静的な取捨選択ではなく、
過去の全てを飲み込んでダイナミックに、有機的に成長していく解。


あまり真ん中に立とうとするのをやめようかと思う。

毒にも薬にもならない真ん中じゃなくて、批評家じゃなくて、

偏っていても、勘違いでも、思いこみでも、

ちゃんと否定されて、叩かれて、でもしっかりと次への養分となれるような


どうせなら、そういう役割の人間をやりたい。
posted by chanm at 11:13| Comment(0) | TrackBack(1) | 人間なんて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月18日

もう自分を評論するのはいいかな、と思ってる。

倫理について語るとき・語られるときいつも思うのは、
ほんとは倫理について語る必要のない社会ってのが一番倫理的なのよね、ということ。
もっと言うと、倫理という概念自体がない社会。いらない社会。
倫理って何?と。

もちろん原始的でそこまで至らない、という意味ではなくて、
わざわざ言葉や概念にしたり、ルールとして明文化するまでもない当然のこととして、
みんなが自然に、ふつーに倫理的に振舞ってる社会。

倫理が、自然にその根拠を持つという人はいると思うけれど
私はそうは思わない。
倫理は人間が作ったもので、
強いて言えばだから、根拠は人間自身だ。

倫理ってある意味けん制である。
自分の権利を抑えることで他人の侵害も抑える。
他人の権利を認めることで自分の権利も認めさせる。

倫理とは何か?
と真実を探求するような気持ちで考え続けている人がいるかもしれないけれど、
何を倫理にするか自体をそもそも人間が決めてるわけだから
答えなど出ない。というか堂々巡りである。
そうじゃなくて、人間を主体にして、
人間がこれからどういうものを倫理としようか、それを考えるほうがよっぽど誠実だ。


ってそういう話じゃなくて、、。

だからね。
倫理的、と思う前に倫理的である人が一番倫理的なように、
よいこと、と思う前によいことをしている人が一番よい人で、
楽しいこと、と思う前に楽しんでる人が一番楽しい人で、
がんばってる、と思う前にがんばってる人が一番がんばってるのだと思う。


だから、、


倫理的か?よいことか?楽しいか?がんばってるか?

自分に問うのはそろそろやめようと思う。

なんかうまく言えないけど。




倫理的であるか確かめながら、
よいことであるか確かめながら、
楽しいか確かめながら、
がんばってるか確かめながら、

生きるのならそれはなんかまだ、
本物じゃないような気がするから。
posted by chanm at 01:30| Comment(5) | TrackBack(0) | 人生、みたいな | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月29日

あれがなくても、これがなくても、生きていきたい

高校の頃の友達がちょっとくせっ毛で、
「ドライヤーがないと生きていけない」子だった。

合宿やら旅行やらとにかくくるくるドライヤー必須で、
毎朝それでちゃんと前髪を整えなければ
一日が始まらないのだ。

私はそのまめさ(ちなみに長野語で”ずく”という)に感心しながらも、
不自由な生活だなあ、と、思っていた。

私がもし彼女だったら、間違いなく全然気にしていなかったであろうくらいの
くせの程度なのだ。そもそも。彼女の髪。

もし彼女がドライヤーを忘れたら?
地震でも来て、ドライヤーまでは持ち出せずに避難したら?

どうするんだろう。私は心配だった。いつも。



1年くらい前、知り合いのビーグル犬が亡くなった。
その人の生涯2匹目のビーグルだった。
彼女はとてもとても悲しんでいて、
しばらくそれが続くなあと思っていた。

思っていたら2週間ほどして、
新しいビーグル犬を買っていた。

超かわいい。

彼女、即溺愛。

ってそれはいいが、前のビーグルは???
まあいいか。そうは言っても2週間は喪に服したわけだし。。


ところで彼女はうつ病で、
でもそうなった原因ははっきりしていて、
(犬とは関係ない。ある出来事と、甲状腺のホルモンなんとか。)
薬を飲みながらそれは、
快方に向かっている。

そしてそのビーグルは彼女をハッピーにさせ
毎日を気ぜわしく、楽しくさせている。
子供のいない彼女はその新しいビーグルを
自分の子供のような愛しかたで、
ほんとにその子がいなければどうなってしまうんだろう、
ってくらいかわいがっている。

私は怖い。はっきり言って。


ビーグルは彼女を幸せにしている。
ビーグルがいる限り彼女は幸せだろう。
じゃあ、ビーグルがまたいなくなったら?


・・・いなくなったら?


怖い。



何かがないと生きていけない、そういうものを
一つでも減らしたいと思ってしまう。私は。
逆に、これがないと、生きていけないという
強い思いを持っている人を見ていれば見ているほど
怖くなってしまう。
じゃあなくなったらどうすんの?って。


もちろん、文明社会に生きていて、
私だってこれが無くては生きていけないっていうのは
たくさんあるけれども、
反面そのどれが、いつ、なくなっても生きていけるように
していきたいと思ってしまうのは、
何にもある一定以上の執着を持たないようにしようと警戒してしまうのは、
杞憂だろうか。
無駄な心配、だろうか。


なんて思ってあるとき、
他の、うつ病だった人と話していたとき、
「出来るだけ、感情の自給自足が出来るように、執着なく生きていきたい」って言ったら
「そんなのつまんないじゃん、執着してこそ、人間」といわれた。
その人は強い。
自分の信じていたものを否定されて一気に落ち(鬱)たんだけど、
また復活したのだ。
そしてまだ、こう思っているのだ。


・・もしかしたら、
そこまで無防備に何かに執着できる人というのは
たとえ万が一それを失っても、
その悲しみに耐えられたり、
また立ち直れる強さを持っているのかもしれない。

そしてそれができそうもない私は
そうならないように、
出来るだけ感情を薄く薄くしようと
ちょっと人からみたら”寂しい”道を行こうとしてるのかもしれない。


ってまあ、そこまでして(何にもこだわらないようにして)、
なぜ生きたいか、っていうのはあるけれども。そういや。


執着を持って、執着とともに熱く死んでいくのと、
執着を捨て去って、淡々と長く老いていくのと、
どちらがいいかはちょっと、わからない。
多分人の性分によるのかもしれない。
あと、体力(笑)。


今のところ私は、生きたいようだ。
あれがなくても、これがなくても、びっくりするくらい寂しくても、それでも。
posted by chanm at 02:09| Comment(0) | TrackBack(0) | かちかん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月09日

メタ・形而上学?

形而上学とはつまり、人間の知覚に関する領域についてのあれこれで、
それはいつでも、
世の全てを覆う(表現する)事を夢見ているのに、
当然のように、夢見ている人間の脳内という限界を出ない。

今、生きている、人間の脳、という限界。

人の形而上学は、生まれてきてから、死ぬまでの、思考と経験の積み重ねで、
その「生まれてから死ぬまでの人間が紡いだあれこれ」は、
螺旋階段を描きながら、「形而上学史」を作るけれど、
人は生きているときしか形而上学ができないので、
その対象はいつの時代も、「人間が生まれてから死ぬまで」に限られる。

今、生きている、その期間、という限界。


人間の認知であったり、
人間の寿命であったり、
そういうものの範囲内で、形而上学をすることは確かに
少しでも「現実的」というイメージを持たせるためには重要で、
もしそれで完結できるのなら、
そんな素晴らしいことはないのだった。


・・形而上学、って何であろうか。Metaphysics・・・物理のメタ?
目に見える、物の理(ことわり)を、超越した大いなる原理?
”現実”や”事実”に煩わされず、惑わされず、
普遍に存在する何らかの原理・・形而上学はそれを追い求めてきた・・?

でも。
常に横たわる大いなる矛盾。

形而上学・・メタを求める・・・それをする人間の脳は、自らのメタを認めない。


たぶんほんの一部分の人を除いてほとんどの
メタをを求める−”真実”、”原理”、”普遍”を求める−人達の脳は、
その脳自身にメタがあることは決して認めない。

つまり、人間の脳という限界、人間が生きている世界という限界に、
メタを想像しない。


形而上学がお家芸である哲学ですら、
霊的な感知であったり、
魂の転成であったり、
「そういうものの範囲内」を超えたものについては今まで
「宗教」に任せてきた。
自分たちとは別カテゴリーの、しかし自分たちと同次元のものとして、
異業種として片付けてしまっていた。

でも多分、人間がもし「真実」を理解するならそれは、
人間自身のメタを
素直に認めたときなのではないだろうか。
人間の脳を超えた何か、霊的な、魂的なもの・・・。
それは人間が生きているという期限をも超える。

できれば、自らのメタを認め、
本当のメタに向かって、恐れることなく進んでみたいと思うようになった、このごろ。
そしてそんな大いなる流れが今、
世界中で始まっているような気がする。
posted by chanm at 18:46| Comment(0) | TrackBack(0) | かちかん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月05日

魂は芸術を求めて

アーティストと呼ばれる人達のなかで
やっぱり輝いているのは、
ちゃんとその人自身である、人だろう
という気が最近する。

だいたい、自分自身である、なんてとても難しいことなのだけれど、それでも。

自分を認めてほしかったり、
ほめてほしかったり、
誰かに勝ちたかったり、一番になりたかったり、
思いを聞いてほしかったり、
共感がほしかったり、
何か素晴らしい存在でありたかったり、

とにかく人は「何かを得たい、何かになりたい」という思いがとても強い生き物で、
それは芸術家であっても例外ではない、
いや芸術家だからこそ普通の人よりそういう想いが強いと思うけれど、

でもそういう想いは、焦りや苦悩を産むことはあっても
その人本人を、その人自身の内面から遠ざける。

アーティストはアーティストに”なる”のではなく、
既にアーティストで”ある”、完璧な存在だから。

それだけで素晴らしいのだから、
あまり遠くを見ないで
その人であること、その人自身を表現すること、
を追求していってほしい。

アーティストその人自身であったとき、
それはきっと、一般人という日常に埋没し、忙殺され、紛らわされ、押しやられ、眠っていた、

多くの魂を共鳴させる。
posted by chanm at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間なんて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月01日

自己成長する存在

よのなか面倒くさいことは山ほどあるが、
人間はそれを少しでも軽減しようと、
いろいろがんばっている。

全自動洗濯機や食器洗い機、カーナビ、パソコン、何でもいいけど
めんどくさいことを機械にやらしちゃえ、と
日々便利なものを発明している。

最初は、たった一つの作業の肩代わりをするだけだったマシーンも
コンピューターというものが出来て、
”プログラム”することにより、一連のまとまった作業をさせたり、
さらには自己学習させることも出来るようになった。

ボタンをピッ。スタートボタンをクリック。
こんなノリであとはお任せ、って感じである。


ところで世の中一番面倒くさいことは何かといえば
コミュニケーションである。人間と人間との。
この面倒くささが醍醐味でもあって、
こればっかりは機械にやってもらう訳にはいかない。


人間を客観的に”設計”することはできないし、
どんな”プログラム”があれば人間がうまいこと動く(生きる)のか
そんな方法は今のところ、見つからない。
参考に生身の人間を観察する限り、
毎日無駄なことや愚かなことばっかりしている。
合理的でないし、合目的でない。
その上誰として、同じ人間はいない。

やっているのはただただ、トライアル&エラー。
勉強も恋愛も対人関係も金儲けも、
失敗して、学んで、次に活かして、また失敗して、たまに成功して、死ぬ。
それも個々に。
誰かの成功法則が他の人にも使えるかといえばそうでもないし、
誰かの失敗教訓が他の人にも活きるかといえばそうでもない。

人間にとっての変数は人間だ。
人間にとっての環境も人間だ。
国・社会・人間関係・その人自身の肉体の状態、
全てが相関し合う中で生まれる、性格・価値観・言動 −心。
お互いが干渉しあい、誰一人として基準となり得ない中で、
一人の人間の生という、無限の可能性を定義(プログラム)することは出来ない。

人間は客観的に設計されない。
だから、人間は、自己学習するしかないのである。

もちろん外部からの「教育」によりある程度までは成長するかもしれない。
しかしそれを「吸収」「発展」させるかどうかは
本人の問題だ。

自己学習して、自己成長できること。それこそが人間が生きる術であり、
そして人間の素晴らしさだと思う。


・・そして人間に「自己学習」を教えられるのが、
その人間の親、そして社会、つまり人間自身である。

コンピューターをプログラムできても
子供に自己学習を教えられない社会に
なってきているのかもしれない。

子供はキレてもいいんだと思う。
それは同時に、キレちゃいけないことを学ぶ機会だから。

大人がキレる子供を研究して、
親切にも、キレる原因や答えを考えてあげることは出来るかもしれない。

だけどそれこそ、
その子がコミュニケーションの中で「自己学習」しなきゃ、
その子の生は、解決なんてしないだろう。
posted by chanm at 18:27| Comment(0) | TrackBack(0) | あえて言えば社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月29日

次悪の人間

昔読んだコラムで、
主婦は最近次善の検討もせず次悪を選ぶ
というものがあった。
(なかなか興味深いので、どうぞ)

最悪想定、次悪の選択
 ビジネスではよく、最悪を想定して次善の策が打たれる。が、主婦たちの食事作りの選択は、「最悪想定、次悪の選択」だという。
 例えば、それは「子どもは朝自分でカップ麺を出してきた。食べないよりマシかと思い要望通り食べさせた」(39歳)、「朝食を取らない夫に、何も食べないよりいいかなとクッキーやスポンジケーキを出すことにしている」(38歳)といったことだ。「何も食べない」という最悪の事態をいきなり想定し、それと比べてカップ麺やクッキー、スポンジケーキでも良いことにしてしまう理屈だ。


次悪、という言葉のインパクトはすごい。
勝手に衝撃を受けた・・・もちろん・・・自分がそうなので・・・。
子供はいませんが。

人は出来れば最善を尽くす。
出来なければ事前の策を考える。
最悪の事態を避けるために。

そこに出た次悪!っっっって日本語じゃねぇ!

最善も次善も遠い昔。
今の合言葉といったら「ぜんぜん〜しないよりましか。」
まさに次悪。

思想は習慣を作り、
習慣は人を作る。

次悪の私。
posted by chanm at 23:46| Comment(0) | TrackBack(1) | かちかん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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